東北最古の板碑

鎌倉時代から室町時代前半にかけて、関東の御家人の特に武蔵地方を中心に全国的に流行した風習が板碑の造立です。歴史の研究では、あまり注目されなかった分野ですが、鎌倉時代の文化がいち早く取り入れられたことを証明するものとして貴重です。
板碑とは、御家人や有力者が亡くなった後に、現在の回忌の時に供養碑として造立したものです。1230年代に関東で発祥した風習で、緑泥片岩を板のように薄く切り出し、表面に阿弥陀如来などの梵字と願文を彫り、文字の部分には金箔を押したもので、供養塔婆とも言われていますが、板碑が一般的です。

会津では、関東で板碑が作られて間もない延応4年(1240)に、会津高田町藤田大光寺板碑が造立されています。会津の藤田周辺の凝灰岩を使用したことから、板のようには薄く造れず、厚みのあるのが特徴で、以後、東北では厚みを持つようになります。この板碑は、全国的にも十数番目となる古いもので、東北地方でも最古のものです。ただし、一般的に普及するのは、願文の年号から会津地方では、1280年以降からであり、室町時代の初期には消滅してしまいます。その形は、武蔵地方の板碑基本型と、基本型から崩れた板碑崩れ型、東北地方に多い自然石を生かした自然石型に形が分けられます。
現在、会津地方には、「板碑」『会津高田町史第二巻 資料編T』によると、会津盆地や猪苗代湖西岸を中心に約80基の板碑の存在が確認されています。板碑は単に記念碑と捉えるのでなく、鎌倉文化の会津流入と鎌倉御家人の会津定着があったことを示しています。

板碑の分布には、大きく3つに分けられます。
藤田大光寺を初現として会津高田町・会津本郷町・北会津村・会津若松市・下郷町の会津盆地南部に分布するグループ1。
会津若松市湊町の石動木板碑を初現として、会津若松市・河東町。塩川町・喜多方市・北塩原村・高郷村。猪苗代町の会津盆地東北部に分布するグループ2。
南会津にあるもので、直接関東地方から搬入した南会津地区のグループ3があります。それらは、会津に伝播した時期や、ルートも異なり、独自の系統を持っているようです。

グループ1は、大光寺1号板碑を基本形にし、そこで定着し12基造立されます。そこから、北会津村今和泉に伝わり、徐々に基本型から東北型とも言われる自然石型に変化し、梵字だけ彫られるという特徴があります。会津高田町と会津本郷町に多く、大型化し年号が無いものへと変化します。そのため、正確な年代は決められないのですが、14世紀前半には消滅するようです。

グループ2は、正応元年(1288)の石動木1号板碑を初現として、会津若松市湊町で定着し、永仁五年(1297)には喜多方市豊川町に、正安三年(1301)には熱塩加納村まで分布が広がり、主に湊町と河東町、盆地北東側で盛んに造立されています。中には、湊町から玄武岩を運び使用した塩川町の大光寺板碑のように、明らかに湊地方から伝わった事を示しているものもあります。14世紀末には、このグループも消滅します。
グループ3は、舘岩村と伊南村にある小型のもので、武蔵地方特有の緑泥片岩を使用し、厚みが3cmと薄く、年号から関東地方で14世紀前半から中頃に造られたものを、室町時代に会津移住とともに板碑も運んで来たものです。

板碑の中心には、梵字が彫られていますが、初期の段階は、キリークの阿弥陀如来が多いのですが、一部にはバンの大日如来もあり、以後阿弥陀三尊も加わり、様々の梵字が加わります。このことは、板碑の造立が、当初真言宗の影響が強かったことを示しています。同時に、真言宗が会津に定着したことを証明するものです。

板碑の造立は、平安時代に全盛を迎え、衰退したとはいえ、鎌倉時代でも壮大な寺院として会津に君臨していた恵日寺との政権交替を示しています。鎌倉時代、葦名氏が会津に住むことはなく、ほとんど鎌倉に居て、領地の支配を恵日寺に代行させていたものを、黒川の興徳寺の建立を契機に、恵日寺の寺侍であった富田氏の隷属化と氏寺の実相寺の建立に合わせ、恵日寺からの支配権の分離がなされたものです。また、恵日寺の天台宗からの真言宗化へと呼応するように、在地への関東御家人の流入が1240年頃から始まり、1290年には、会津盆地で広く、恵日寺から葦名氏などへの交替が行われたことを示すものです。そして、ほぼ14世紀初めには、会津全域に及んだことが伺えます。このことと同時期に、恵日寺の影響の強かった平安時代からの焼物の一大生産地の大戸窯が、14世紀前半に生産を停止しています。
しかし、恵日寺は伊達政宗侵攻まで信仰の中心として存在しています。

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