恵日寺・勝常寺の成立

平成8年、国宝に指定された「勝常寺の薬師三尊」指定理由は、『当地の製作で奈良時代風の古様も看取され9世紀の前半にさかのぼるもので、 法相宗の徳一が何らかの形で関わっていることは十分に考えられる(1996「月間文化財」文化庁文化財保護部)』ということでした。かつての 寺域には、講堂や大門、三重塔等も存在し、南北236mの範囲(「湯川村史一」)であったとしています。
一方の恵日寺は、法相宗の徳一によって山岳寺院として建立され、国史跡に指定されています。その伽藍配置は永正年代に高野山で補修された 「永正古図」と合致するものです。
どちらも徳一の建立とされていますが、文献的には結びつくものはありません。
しかし、勝常寺では未指定ながら平安前期の徳一の座像とされるものがあることから、両寺院は関係が深いと考えられます。

比叡山延暦寺や高野山金剛峰寺が造られる以前の寺院は、大安寺と吉野の比蘇寺や法隆寺と福貴山寺、興福寺と室生寺のように平地寺院と 「求聞持法」という山林修行の如法修行をする山岳寺院とが、セット関係となる結び付きがあり(1998「山岳寺院の研究」考古学ジャーナル)、 南都仏教においても山中に誦経修行場が存在するという見方があります。平地寺院の勝常寺と修行の場である山岳寺院の恵日寺という関係に充てはめると 二つの寺院立地が容易に理解できます。

徳一の師は、法相宗興福寺の修円であり「法相宗派図」に「伝法院開祖北谷氏の子修円、弟子徳一」とあり、「南都高僧伝」には藤原恵美大臣仲麻呂の 子とし、徳一が、藤原氏と関係がある興福寺の名門の僧であることが分かります。修円の墓は、室生寺境内の修円廟にあり、修行の場である山岳寺院を 大切にしていたことを物語ります。そのため、徳一も師にならって山岳寺院の恵日寺に墓所を設けたのもうなずけます。なお、徳一廟の層塔内から出土 した舎利容器は、土師器の甕で、体部が縦方向のケズリがある9世紀第24半期の恵日寺周辺で作られた製品です。

法相宗の高弟徳一が、会津に来て勝常寺や恵日寺を建立するには徳一個人の力だけで実施することは困難であり、国分寺や郡寺でもない寺を会津の郷族が 南部から高僧を呼び寄せ、寺を建立することは、財力の点からも難しく、国家の勅命がなければできないものです。
徳一との関係から、そこには南部の興福寺と藤原氏が建立に深く関わっていることが想像されます。

平安時代初期の会津は、会津地方の生産力が飛躍的に向上した時期でもあります。そのことは、発掘調査によって理解できます。会津若松市の屋敷遺跡、 矢玉遺跡、東高久遺跡、西木流遺跡、上居合遺跡や会津坂下町の大江古屋敷遺跡、三本木遺跡、宮ノ北遺跡、塩川町の鏡ノ町遺跡A、猪苗代町の三城潟 家北遺跡、観音屋敷跡など、8世紀後半段階から9世紀中頃にかけ掘立建物跡だけで構成される大集落が相次いで成立することからも分かります。また、 9世紀前半の東高久遺跡からは、遺跡内から堂跡が確認され仏教文化が早く浸透していることを示しています。

またこの時期、会津郡からは耶摩郡が分割していると考えられます。承和7年(840)3月4日には、「続日本後記」に「耶摩郡大領〜姓上毛野陸奥公」 とあり、大同年間に書かれたとされる「大同類聚方」にも「耶摩郡」の名があることから、承和年間までに会津郡から山郡が分離しているのは確実であり、 「和名類聚抄」の「白河」に(会津の間違い)、「大沼河沼二郡」とあり会津郡から耶摩郡が分けられています。9世紀中ごろまでに急激な集落の増大が 郡の分割を証明しています。

両寺院の建立には、大同元年(806)の噴火も関係があると見られます。しかし、明治21年の噴火のような水蒸気爆発であれば火山灰は少なかったと 考えられ、その噴火口は磐梯山東側の沼ノ平付近であったとも言われています。噴火により当時の人々が不安になるのは当然であり、そのために陸奥国や 中央政府の後押しから噴火の鎮護のために、勝常寺や山岳寺院の恵日寺が建立されたとも考えられます。ただし、磐梯山南の猪苗代湖北岸の発掘調査では 明確な噴火の痕跡は、確認されていません。

藤原氏は陸奥国や平安京とも関係が深いものであり、蜷河荘が藤原一族の「冷泉宮領」とし成立し「関白藤原忠実領」を経て「近衛家領」となることからも、 藤原氏につながるものです。その蜷河荘の中心は、会津坂下町の政所と考えられます。関連する遺跡の三本木遺跡や宮ノ北遺跡では、掘立柱建物跡郡が検出 され、近江地方産の10世紀前半の緑釉陶器が出土しています。その遺跡の成立は9世紀まで遡るもので今後の研究に期待します。
会津地方を手始めに、東北地方の荘園支配を強めようとした藤原一族が勝常寺の建立をし、送れて恵日寺を建立したものと考えられます。

成果3へ 成果5へ