会津郡の群衙を考える

会津地方周辺に、古代の律令制が導入された時期については、はっきりしていません。
「日本書紀」によると陸奥国は、676に国名が現れますが、それ以前に陸奥国が存在したものと見られます。陸奥国の存在を推定する城柵として宮城県仙台市の郡山遺跡があります。この遺跡は、発掘調査から7世紀後半に成立した官衙で、南北6町東西4町の範囲があり、続くU期官衙が7世紀末に位置付けられています。同じような遺跡として、宮城県古川市の名生館が存在することから、8世紀初頭には、仙台市の北まで律令が施行されていたことを示しています。

また、日本海側では、越国(新潟県)に渟足柵(ぬたりのさく)が647年に設置され、648年には磐舟柵(いわふねのさく)が設置されます。渟足柵は新潟県中部と推定され、新潟県三島郡和島村の八幡林遺跡からは沼垂城(ぬまたるじょう)と書かれた養老2年(718)の木簡が出土し、渟足柵の有力な推定地となっています。磐舟柵は新潟市にあったと考えられています。さらに、和銅5年(712)には「続日本紀」によると、越後国に設置された出羽郡に陸奥国の最上・置賜の2郡を加え、出羽国へ昇格しています。出羽国府は山形県の庄内地方にありました。

7世紀から8世紀の会津は陸奥国に属し、律令制に組されていたものと見られます。それを証明するものとして、会津若松市一箕町の村北瓦窯跡があります。この窯跡で焼かれた「雷文縁複弁蓮華文軒瓦」は7世紀末頃と推定される瓦で、奈良県の大和紀寺系の瓦に近いものです。瓦の供給先は、郡衙か地方豪族の氏寺に使用されていたと考えられていますが、今もって使用された遺跡は見つかっていません。なお、この窯跡からは須恵器の窯跡も発見されています。さらに、この窯跡の北には7世紀末から8世紀初頭に操業した河東町藤倉新田の新田山窯跡は、須恵器の焼成をしているもので村北瓦窯跡とともに、会津地方が律令制に取り込まれていたことを示しています。
平安時代に書かれた「国造本紀」は、7世紀後半頃の郡名が記載されています。その中にある「阿岐閇国造」は「会津国造」と記載したものとする説もあります。

陸奥国は、「続日本紀」によると養老2年(718)に岩城・行方郡や常陸国の菊田郡を分離し岩城国が置かれ、白河・会津・岩背・安積・信夫郡を分離し岩背国を置いたが、岩城国と岩背国は神亀元年(724)に再び陸奥に編入されています。この年、多賀城碑によると多賀城が造営されています。また、「続日本紀」に神護景雲3年(769)に陸奥大国造道嶋宿祢嶋足の申し出から、会津郡の住人で丈部庭虫等二人に「阿部会津臣」の記録があります。延暦8年(789)には、高田道成と会津壮麻呂が蝦夷との戦いで戦死した記録があります。高田氏が会津高田周辺の豪族とする見方もありますが定かではありません。高田周辺には新鶴村に須恵器を焼いた大久保窯跡があり、8世紀中頃の年代が与えられています。この窯跡の周辺に有力な豪族が存在していることは確かです。大同3年(808)に書かれた「大同類聚方」には、陸奥国会津県主と記載があります。

現在会津郡のもっとも有力な郡衙の候補地は、河東町郡山が上げられます。瓦を使用した遺跡は発見されていませんが、仙台市の郡山遺跡の一期官衙のように瓦を使用していない建物であったかも知れません。
郡衙に関連する遺跡として、会津若松市の矢玉遺跡(「矢玉遺跡出土木簡解説」『若松北部地区県営ほ場整備事業発掘調査概報W』会津若松市教育委員会)があります。ここからは年代は不明ですが「請立薦弐巻 右附石嶋所請如件」裏に「十一月廿八日陸奥藤野」や「去承和以五年除田□□」(会津若松市文化財だより)の承和五年(838)の郡符木簡が出土しています。この遺跡は、掘立柱建物跡で構成される郡衙関連した遺構と考えられています。
塩川町の鏡町遺跡Aからは8世紀の三彩小壺(「鏡町遺跡A遺跡」塩川町教育委員会)が出土し、特異な遺構が付近に存在していることを表しています。
会津郡衙は、確認されていませんが宮城県や山形までは8世紀初頭段階に律令制下に入っていたことは確実で会津に関係する人物の名も見えることから7世紀末には郡衙が成立していたと考えられます。

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