今回は、奈良時代以降となります。


東日本最大の窯業地

  「会津大戸窯」

 遺跡の発掘調査を見かけると、必ず焼物が出土します。遺跡の年代は、土器や陶磁器の変化を研究し、微妙な形や技法の特徴から年代を つなげることが出来ます。それを、焼物の編年といいます。会津は、古代から近世まで焼物が続いていることから、東北地方で唯一古代以降で、焼物の編年が 可能な土地です。
東北地方の、現在まで続く焼物生産の二大産地は、大堀相馬焼と会津本郷焼です。会津本郷焼では、現在でも17の窯元がそれぞれ窯 を持ち、伝統産業として陶磁器の生産をしています。

その会津本郷町の阿賀川を挟んだ南東側対岸の会津若松市大戸町に、奈良時代から南北朝時代に かけての東日本を最大規模で、古代から中世で最も多く焼物を産地していた「大戸古窯跡群」(以下「大戸窯」という)があります。
大戸窯の焼物は、 奈良・平安時代に朝鮮半島から伝わった青灰色をした須恵器を焼き、平安時代末から南北朝時代にかけては、常滑焼に似た焼締め中世陶器を焼いていました。
窯跡は、市教育委員会の分布調査の結果、大戸町の下雨屋・宮内・上雨屋・南原・香塩地区にまたがる東西2km、南北4.5kmの低丘陵上に分布している ことが判明しました。窯跡は、現在までに須恵器の窯跡が184基と中世陶器の窯跡が36基確認され、未発見の窯跡を含めると300基以上存在するものと 考えられています。東日本では、これまで100基前後の窯跡は仙台市の台ノ原窯や埼玉県の南多摩窯などが知られていましたが、その3倍以上の窯跡が、 大戸窯にあります。
また、窯跡だけでなく、須恵器の工房跡や竪穴住居跡、土取り穴など窯業生産に係わる施設が、平成3年度の市の発掘調査で明らか になり、古代のロクロピットの発見は全国で3例目であり貴重なものです。さらに、窯跡の分布する範囲には、平安時代の鉄の精錬をした製鉄遺跡が3ヶ所、 古代から中世にかけての礎石建物群が3ヶ所、中世の集積墓群が3ヶ所、中世の下雨屋山城跡、上雨屋城跡などもある複合遺跡です。なかでも南原礎石群は、 光明寺という伝承もあり、中世の寺院跡ではないかと考えられ、5棟以上の建物跡が存在しています。また、上雨屋礎石群は、東西約150m範囲の丘陵上に 転々と存在し、総柱となることから古代の倉庫群と考えられるもので、大戸窯との関係が注目されます。

窯跡が知られるようになったのは、昭和57年の福島県農業開発公社による果樹園開発が発端です。開発に先立ち、須恵器の窯が多数発見され保存が出来な かった須恵器の窯跡2基の発掘調査が実施されたことにより、東北地方には例のない規模と、製品の技術の高さと器種の豊富さが明らかになり、全国的に 注目されました。
大戸窯の製品の供給範囲は、福島県内はもちろんのこと、岩手県水沢市にある胆沢城跡まで、北関東や新潟県から秋田県と青森県を 除く東北地方各地で広範囲の出土が確認されています。会津本郷焼きの3倍以上の流通範囲がありました。そのため、東北地方では、古代の遺跡の年代決定には 大戸窯の編年が基準となっています。
生産の背景には、陸奥国府の多賀城と勝常寺や恵日寺という有力寺院の影響があったと考えられます。多賀城跡の 南には、平城京のように碁盤の目の道路区画が確認され、伏石地区からは、会津郡の3等官の名前のある木簡が出土し、会津郡の多賀城跡における出先機関と 推定される場所があります。また、そこからは、大量の大戸窯産の須恵器が出土しています。中世陶器の流通には、恵日寺や徳一に関連する寺院の分布範囲と 一致していることも注目されます。

大戸窯は、鎌倉時代後半になると恵日寺の支配代行から芦名氏の直接支配へと代わり、常滑窯や珠洲窯、越前窯の製品が 広域に流通されだすことにより、生産コストの高い大戸窯は終焉となります。以後、会津で焼物が生産されるのは、蒲生氏郷の時代になり、会津大塚山窯跡で 天目茶碗を焼く時まで待つことになります。

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